大庭英雄の教え
第1節 大庭英雄師範(以下、敬称略)の経歴
大庭英雄(1910-1986)は日本合気道協会第二代会長で子供のころから柔道(六段)を修行し、のちに、合気道(九段)、剣道(四段)、薙刀(三段)、居合、銃剣道、弓道なども研究・修行した。各武道の修行歴とともにきわめて豊富なのが、柔道と合気道の指導歴である。旧制角館中学を卒業した時から、柔道の実力を見込まれて、柔道嘱託として生徒の指導に携わったのをはじめとして、満州・建国大学時代には柔道と合気武道の助教のほか、新京・神武殿の柔道教師、首都警察庁、新京宮内府、憲兵教習隊、在郷軍人会、新京興業銀行でも指導した。戦後は、横手警察署柔道師範、秋田県警察の柔道担当の術科係長、県警察学校の柔道師範。昭和35(1960)年からは早稲田大学体育局講師および合気道部師範。他にも成城、国士舘、明治などの各大学でも指導。同時に、米軍関係、霞町の正道館、青山のレスリング会館、大久保のスポーツ会館などで、社会人、青少年に合気道を指導してきた[1]。
富木謙治師範(以下、敬称略)と大庭は柔道と合気道の長きにわたる師弟関係にあり、大庭は富木が講道館柔道に倣って合気道の近代化を進めるうえでの唯一のパートナーであり、普及に際して指導現場の一切を任された合気道指導の権威である。
第2節 大庭英雄の指導法
富木謙治は大学や講道館、学会などでの授業・研究・普及活動に多忙であった。さまざまな場所と生徒に実際に指導するのは大庭の仕事であった。大庭は指導の現場を熟知しており、理合にかなう(技の効果が高い)ことよりも、安全性や技を体得する容易性を重視したものと思われる。従って、両師範は数十年間にもわたってともに修行してきたのだが、一見異なった取り方のわざがあり、両師範の弟子の多くが疑問を抱き続けていた。私は、早稲田大学体育局合気道部で両師範から教えを受けた以降も折に触れ両師範の指導に接することはあったが、なかんずく、大庭師範からはスポーツ会館の合気道教室に1979年から助手を依頼され、その間私自身が直接指導を受けたり、大庭の社会人や青少年に対する指導を間近に勉強させられる幸運を持つことが出来た。ここでは、大庭の指導法を紹介して合気道指導者の一助に資することと同時に、大庭師範の功績の一部として後世に伝えられることになれば望外の喜びである。
(1)基本の技十七本の指導については直線的な動きで説明した。一般的には合気道は円運動が強調されることが多い。富木謙治も「柔の理」を「押さば引け、引かば押せ」という原理で説明する中で、次のように説明している。
相手が押して出る同じ方向へ自分がさがって相手をひくよりも、自分は体をかわして相手の押す力を流し、その機に乗じて相手を引くならば、いっそう効果がある。つまり、相手の動く方向は、自分を軸として、その周辺を移動することになるから、自分よりも多くの動きをしなければならいばかりでなく、遠心力も加わって体が動揺し姿勢が崩れる。だから、「押さば回れ」という言葉もあるように、つねに相手の力に随順しながらも、自分を主軸にして相手を周辺に導くように動作して、これを崩さなければならない[2]。
これが合気道の原理に間違いないので、円運動の動きが多くなるのは必然なのである。しかし、学校教育での現場で、場所と時間の制約を考慮しての一斉指導を行う場合、全員が円運動の動きをしたら、生徒同士が衝突してしまう恐れが生じる。私自身も早稲田大学の合気道の正課体育の授業の助手をしているときに、当時の広い柔道場ではあったが、大庭の直線的な動きの指導法でなければとても50人ほどの授業はできないと感じたものである。
直線的な動きで指導した理論的根拠はもう一つある。基本の形十七本は「乱取りの形」として制定されたものである。自由意思でかけあうということは激しい攻防があるということであり、激しいということは動きの速度がきわめて速いということで、時間的に速いということは直線的な動きに帰結するということである。このことを、直線は円の一部であり、円は直線の繋がりによって構成されているとも言われた。熟練してくると直線的な動きの中に、細かな円運動をとりこむことが出来るようになるものである。
(2)ほめ上手であった。出来ていないことを指摘することより少しでもいいところを見つけてはほめるのであった。毎授業ごとに、必ず、誰かのいいところを発見し、それを皆の前で発表するのが習わしであった。これでほめられた生徒はますます意欲が向上し、他の生徒は良い刺激を受けることになったのである。
(3)比喩が得意であった。技のとり方の解説をするとき、生徒のレベルに合わせてわかりやすいような譬えを引用することが得意であった。「大きい波が押し寄せるように」「手で水を掻くように」などと。精緻な技術を指導するときもそれを大きく表現することで理解されやすいように工夫をされていた。
(4)生徒の技の受けを自らとった。これだけの年齢も地位も高い師範が生徒の受けを直接受けるなどということは他には見ることが出来ない。病気で入院される直前まで平気で跳び受身を取っていたことは驚異的なことである。生徒の受けをすることで、いいところ、改善すべきところが即座に判断できるのであろう。さらに、合気道の形の学習では「受け」をどのようにとるかということも技を「掛ける」こと以上に大事な場合がある。安全な受け方のお手本を見せることと、適切な受け方が掛ける要領を体得する早道ともなるからである。ただし、これを指導者の先生方に要求しているわけではない。受け身を何回もとることは体力的に困難な人もいるはずなので、受け身をとる寸前までのかける動作(「作り」で止めて、「掛け」ない)を受けてあげるだけでその生徒の改善ポイントは分かるものである(勿論見ているだけで解ることも多い)。
(5)指導者層への気配りがあった。通常の指導では、助手はつきものである。模範を見せるときに、二人いないとその形や動作をイメージさせることが出来ないからである。ここでは、その助手がいた場合の話であるが、その助手が時として生徒に誤った方法を指導していた場合、その助手にまず道場の端で正確なやり方を教える。決して生徒の前で、そのやり方は違うなどと指摘しない。または、生徒にそのやり方は違うから、こう直しなさいなどというようなことも言わない。要するに誰であれ恥をかかさないように気を配っているのである。
(6)練習相手を頻繁に変える。合気道の練習は二人一組として行うことが多い。その際に、練習相手が固定しないように、練習の節ごとに相手を変えさせるようにした。これは、さまざまな体格の人、さまざまな癖をもった人と練習することによって、わざの応用変化というものを生徒に考えさせたかったからである。
(7)女性へは女性ならではの特別な配慮をする。例えば、近年問題になっているセクシュアル・ハラスメントに類する行為があった時、あるいはその恐れがあった時は速やかに相手を交代させる。しかも、本人たちを傷つけないように自然な形で行う。また、既婚女性には激しい受け身はとらせないようにしていた。妊娠していた場合の流産を恐れたのである。
(8)自らを「礼儀」の手本としている。相手の年齢によらず、相手が子供であれば親しみを感じさせながらも、「礼」をきちんとしていた。おざなりな礼も相手に合わせた粗い言葉づかいもなかった。常に古武士を彷彿とさせる振る舞いであった。
(9)以上のことでわかるように、たとえ、武道の授業での生徒であっても相手を一人の人間として尊重しているということが根底にあった。まさしく「自他共栄」の実践である。
[1] 志々田文明(1991),大庭英雄師範略伝.
[2] 富木謙治(1958),合気道入門.pp.75-76.
「大庭英雄先生 生誕百年記念誌」より転載