師範挨拶
基礎の確立には50年を要する
志々田 文明
先年、指導者の体制が一新され、本協会の活動のうち研究面を主に担当することになりました。よろしくご理解とご協力をお願い致します。
さて、本協会の主要な活動である教育と広報・普及は、研究によって支えられます。科学的な歴史的研究が行われないと、誤った内容が正しいと信じられ、またそれらが教育・普及が為されることがあるものです。そうした誤解の原因は、指導者の研究不足によることが多いのです。
指導者は、富木謙治先生が語った柔道の恩師の次の言葉に思いを致す必要があります。
「嘉納治五郎は自分の工夫を教えたのではなく誰でも自身にそれに基づいて工夫し得る根本原理を教えたのであるから未来永劫亡びることはない。」
この言葉は科学的原理を追求することの大切さを語る一方、指導者の教えは、それが科学的に正しい場合に尊重されることを語っています。嘉納師範のこの謙虚さを紹介することで、富木先生は私たちに真理に対する謙虚さを求めたのです。
私たちに求められている「真理に対する謙虚さ」とは、富木先生の柔道・合気柔術体験と理論の理解、特に先生が学び育ってきた武道界(柔道・剣道界)の歴史的展開についての理解を深めることです。それは先生も依拠した日本史のなかで伝えられてきた伝統の武道思想についての理解でもあります。このことについて、近代剣道史において剣聖と謳われた方々の言葉を参考に考えてみましょう。
昭和の剣聖といわれた持田盛二範士十段は、幼少の頃、五年間にわたって「切り返し(手刀運動あるいは掛かり稽古)の基礎のみを学んでいます。その後に徐々に地稽古(互角稽古だが試合ではない)へ進み、一流剣士への道を歩みました。「気品ある強さ」(舩坂弘『昭和の剣聖持田盛二』258)と形容されたその剣風は、昭和四年に空前の規模で行われた最初の天覧武道試合(指定選士・専門家の部)において、圧倒的な強さで勝ち上がってきた高野茂義範士を破って示されることになります。私の研究では、このクラスの人々は例外なく基礎の長期間の形成を経て、試合への道を歩んでいると思われます。
他方また柔道界においても、名選手を輩出した時代においては、「受身三年」といわれるように、十分な基礎教育を経てから乱取り稽古(我々の引立て稽古あるいは柔らかい乱取り稽古)へと進みました。「今牛若丸、「名人」といわれた大沢慶巳十段も、そのような過程を経てからいわゆる試合への道に進んだと思われます。
つまり、実用性をともなう真の武道の稽古とは、基礎の形成が最も重要であり、その上に厳しい修行(引立て稽古から乱取り稽古)が乗っかるということです。基礎に対する考え方を、持田範士は次のように語っています。
「剣道は五十歳までは基礎を一所懸命勉強して、自分のものにしなくてはならない。普通剣道の基礎というと、初心者のうちに習得してしまったと思っているが、これは大変な間違いであって、そのため基礎を頭の中にしまい込んだ人が非常に多い。私は剣道の基礎を体で覚えるのに五十年かかった」(同, 344)
翻って、私たちの「基礎」(基本の形17本、裏技の形10本)の修行は充分といえるでしょうか。
基礎の年月をかけた習得を重視する伝統は、富木先生が東京で始めて指導を開始した柔道家あるいは大学生に対する指導でも当然のように反映されていました。往事、わが合気道競技の大学間の最初の公式試合であった「三大学対抗試合」(1969年頃)以後、しばらくの間は、公式試合は年に一回、多くなっても二回でした。一年生は掛かり稽古のみの練習で受身と基本技を習得し、二年に入いっても前半は掛かり稽古が主で、少しずつ柔らかい引立て稽古が導入されました。乱取り稽古が導入されるのは、二年の後半から三年前半にかけてであり、乱取り試合をするのは三年の以降というような教育体制であったのです。今日のように掛かり稽古も十分にできない者が、試合をやるなどということは常識外の発想であったといえます。当たり前のように映るこのあり方に、私は富木師範そして大庭英雄師範の深い知恵が込められていると、今にして思います。四年間で卒業する学生に完成教育をしなくてはならない場合には、やむを得ないと言わざるを得ませんが、それでも試合をやるには早すぎるということを、特に指導者は、肝に銘じておかなくてはなりません。
少なくとも一年ないし一年半の間は掛かり稽古と引立て稽古でしっかりした基本を身につけさせる必要があることをよく理解するために、内藤範士の内弟子として育ち、「剣豪と謳われた宮崎茂三郎範士(大日本武徳会教授)の言葉を聞いてみましょう。
「試合にはこうすれば面が打てる、ああすれば小手が打てる、とか、ただ相手に勝つことのみを教え、稽古の順序を教えない者がいるが、之は一考を要することである。習う方は未だ剣の理を知らない時代にこのような説明をきくと、直ぐそのことを信じて、自分に都合よく解釈して、すでに十分錬磨できたと思い、私のいう本当の稽古もせずに上達するものと考えて、当たると直ぐ天狗になるものである。天狗は芸の止まりである。こんなことでは習う方が間違っているのでなく、指導者の方が悪いのである。」
「現在は剣道をやっているもので、あまり稽古をやることを望まずして、よく試合だけをやりたがっている。日々の稽古そのものが、試合か稽古かわからない位の状態である。元来、試合とは平素師範や先輩から習い得た技を同業者、若しくは自分より以上の者に向かって、一本なり二本なりを充分に精神をこめて試みるのが試合である。
処が稽古もロクロクせずに試合ばかり先にやるから、試合そのものも、勝敗も不充分となることが多くなって、単なる剣道の打ち合いの争い事となって、これでは剣道の技が進歩しないだけでなく、一面勝つための悪い技癖を覚え、それだけでなく精神的にも大きな影響を及ぼす結果となる。平素稽古に重点をおいて、試合があれば稽古を基本に考えて、一歩一歩向上するように心掛くべきである。」
剣道家の言葉が合気道に当てはまるのか、と疑問に思う方もあるでしょう。私は正に当てはまると申し上げたいと思います。「乱取り合気道」つまり一定の距離をおいて相手の打・突に対応して戦う「離隔態勢」の合気柔術とは「剣の理」と「柔の理」(柔道原理)を吸収して初めて立ち上がる武道であるからです。持田・宮崎両範士の言葉は、武道の違いを超えて、武道家が襟を正して聞くべき言葉といえるのです。
我々の基礎練習には、運足、手刀運動、手刀合わせ、手刀の崩しなどがありますが、乱取り法の第一段階稽古法である「掛かり稽古」もまた、この基礎練習であると私は考えています。つまり、乱取り基本の形17本および裏技の形10本の左右受け取りを徹底して学ぶことこそが、正しい技、正しい受け身、体さばき、手さばき、運足の基本を身につけることであり、剣道の場合の「切り返しに匹敵するのではないかと思うのです。なかでも裏技の形を表17本との関係で習得することはきわめて重要であり、まさに3年以上50年間を要する価値のある基礎稽古になるでしょう。
富木先生は、強くて優秀な指導者を10人作ることの必要性を述べています。その十人は実に初心者の中から生まれてきます。優れた乱取り合気道を確立するためにも、修行開始後一年余りで試合に出させる慣行は早急に是正しなくてはなりません。折角身につきはじめた初心者の基礎を脅かし、基礎の確立を損なうことによって優れた人材の出現を阻害する試合の開催は、入門後できるだけ遅い時期に設定しなくてはなりません。指導者は稽古者一人一人の実情に応じてその時期を決定すべきでしょうが、少数の指導者が多くの初心者を抱えるクラブにおいてはそれも出来かねることでしょう。だからこそ、試合時期の設定は組織の責任ある指導者の責務であることを、再度強調したいと思います。
なお、本稿ではもう一つの修行法である「形」については割愛しました。乱取りとの関連で一言申し上げると、「形」稽古も、上述した基礎稽古からの修練を経てはじめて、審判員や観衆に媚びるものとは異なる、枯淡の味わいが醸し出されるものと思われます。
(2015年2月23日稿)