富木合気道とは

富木謙治の思想

富木謙治の武道思想

 武術・武芸といった言葉は戦闘に必要なわざ・技術をさし、その目的は勝つための実戦的実用性にあった。一方武道という言葉は、近世までの間はおおむね武士の生活規範の意味で用いられた。近代、明治時代以降に至ると、武道は武術あるいは武芸の意味を引き継ぐ一方、教育的性格を強く帯びて登場した。

 富木謙治の武道思想の特徴は、危険性の伴う武術を近代社会にふさわしいかたちで武道として近代化を促進することと、その武道に実戦的実用性とを同時並行的に追求した点にある。武道の近代化は、一面では武道のスポーツ化(競技化)を意味し、実戦的実用性とは対立する。しかしそれが教育性を帯びた「近代武道」である限り、この対立点の存在は看過できない。富木が特に戦後において、その武道論諸論文で課題とした「武道の現代化」の問題は、いかにしてこの矛盾を克服するかにあったといってよい。

 この課題設定は富木の独創ではない。それは嘉納治五郎が柔道に求めた実戦的実用性と近代化の矛盾を解決する問題と軌を一にすることがらであった。富木は、嘉納が求めた「実戦性」を「近代性」のなかにいかにして組み込むかという課題について、その具体的方法を研究し、後の1961年頃、当身技と関節技を基軸とした乱取り法を創案した。これは当身技など危険性のある技法を近代化する試みであった。

嘉納治五郎の目指した柔道

 柔道創始者・嘉納治五郎が目指した柔道は、決してオリンピック種目としてのJUDO(柔道)ではなかった。嘉納が求めたものは柔道という武道の修行を通しての「己の完成」であり、精神の修養による人格形成であった。

 そのための柔道修行の方法は「乱取り」(自由稽古)と「形」(約束稽古)による技法の訓練である。柔術の修行は形によって行われることが一般であったが、形の後に乱れ稽古が行われることもあった。嘉納はこの比重を逆転し、乱取りを主として稽古し、乱取りによる基本の乱れを形によって補正するという方法をとった。

 しかし嘉納による柔道技法の訓練には重大な制約があった。襟・袖に組み付く格闘形態が前提とされていたことである。嘉納が最初に学んだ柔術は天神真楊流であるが、これは当身、逆技(関節技)、絞め技、投げ技、固め技が複合していたが、それらのうち当身を除く多くの技は、襟・袖など衣服に組み付くか、素肌に組み付くかいずれかの近接した格闘形態によって稽古される。嘉納は、やや離れた間合いの技である当身技の使用を、乱取り稽古において禁止したために(近代性の増大)、嘉納の柔道は接近格闘に限定される武道の性格をもつことになった。

 当身に対する防御や攻撃の稽古を欠いた武道は、接近すれば殴られたり、蹴られたリスクが大きいため、実戦で用をなさない可能性が大きい。この問題性を深く自覚していた嘉納は、「当身を欠いた武術は、不具の武術である(柔道,1931年6月号, pp.2-4.)とまで語っている。柔道の持つ欠陥をどうしたらよいのか。筆者は、嘉納は以下の対応を考えていたと理解している。

 第一は、形(かた)において対当身技の稽古によって克服すること、第二は道衣を軽く掴み、当身に対しても身体の対応を容易にすることである。

 第一は柔道の形、例えば「投の形」の中に当身技が見られるために比較的良く理解されるかもしれない。しかし、第二は言及された事例をほとんど見ない。嘉納は道衣を強く握ることが身体の自由を奪うこと、つまり軽く掴むことによって身体の自由を獲得し、軽妙な足の移動が可能となることを理解しており、組むことを前提とした柔道の非実戦性を克服しようとしていたと考えられるのである。柔道家の基本姿勢として強調した「自然体」の教えも、その点に深く関わっていると考えられる。

 もちろん嘉納は柔術を柔道に近代化するに際して、安全性を確保するための様々な方策を示している。「受身」の稽古は最も重視した方策であろう。投げた際に、つかんだ道衣を離さないことも相手の安全を確保する方策であるし、当身技だけでなく手首関節の逆技などを廃したのも、明治時代以降の社会で求められた「文明国」たらんとする時代への対応であった。

 技の修行を通して心を磨き、身体を強健にすること。心身の力を善用して、世を補益すること。もって自他共栄を図る社会に貢献する(実用性)ことこそが、嘉納が柔道修行者に求めたことであった。

 嘉納はまた、以上の教育論的一般論とは別に、具体的な発展の施策を練っていた。それは剣道を取り入れた乱取りの開発である。嘉納は次のように述べている。

「世間でいう剣道は、或る形で柔道の内に最必要なる一要素として這入って来るべきものと考えられる。形としてばかりでなく試合も矢張必要であるのである。柔道は将来今日の剣道の或る形のものを平素の練習上用いることになると思うが、今日の剣道も今日の儘[まま]では済むものでないと思う。剣は今日実用上昔のように重んぜられなくなった。柔道を心得ているものに対して、剣の有利なる場合は、鞘を払って構えて居る時以外にはない。して剣を使うものも柔道の心得なくしては甚だ心許無い次第である。却って剣道を修行するものは、追々柔道を同時に学ぶ必要を認めて来るに相違ない。かくして従来の柔道と剣道とは合体して一のものになる筈と思う。勿論そういうことも、行き掛かりもあり先入主となるということもあるから急に行われることは六ヶ敷いかも知れぬ、然し大勢はそうなるに極まって居る。只将来とても剣に重きを置くものと、剣を軽く見るものとの区別は免るることは出来まいと思う。」(嘉納治五郎「柔道に上中下三段の別あることを論ず」(柔道, 柔道会, 1918年7月号, pp.2-7.)

 剣道と合体した柔道ができるということの意味は、彼がそのような方向に柔道を改編していく意思の表れであるとも理解される。しかし、いかにして剣道と柔道とを合体した乱取り競技が可能になるのであろうか。

 嘉納は上記論考発表後20年間を生きて没した。嘉納は生前に具体的方策を示すことなく世を去ったのであるが、嘉納はその研究には余念がなく、新しい柔道稽古法の開発のために、講道館でさまざまな武術の研究を行った。ボクシング、レスリング、棒術、杖術、空手、合気柔術などの研究がそれである。晩年に力を入れて普及に乗り出した「精力善用国民体育」という形の内容も、この思想の影響を色濃く反映しているといえる。

 嘉納が諸武術の中でも注目したのは、植芝盛平が教える合気柔術(合気武術)であったと思われる。嘉納は、1930年、高弟の永岡秀一、三船久蔵を伴って、合気柔術の植芝盛平を訪問し、その武術を実見した。その際嘉納は、これが「これが本当の柔道だ」と永岡ら門人に語り、永岡が戸惑ったと伝えられているが、それがあながち過褒でなかったことは、講道館門人二人を植芝道場に通わせ、習ったことを報告させていたことによって理解される(合気ニュース)、No.69, 1985)。

 この事件の異例性は、柔術界に対する講道館柔道の全国制覇はすでに完了したはずと、柔術・柔道界の誰もが認識していたからである。

 富木は、昭和5年の嘉納の訪問に先立つこと4年前の大正15年に植芝と邂逅しているが、その動機も、友人の柔道家から凄い柔術家がいるとの話を聞いてのものであり、彼が続けた理由も、かつて講道館で習っていない多様な技法に対する驚きであった。

富木謙治の「離れた態勢」における柔道乱取り理論

 1927年夏、綾部における植芝盛平との最初の稽古で、富木が組み付きに行くと植芝はそこにはおらず、組み付いた瞬間に、当身、関節技などで投げられた。その際植芝は、「おまえは嘉納さんから組む技しか習っとらんのかい」(佐藤忠之『富木合気道の実力』p.14)と述べたという。

 それは正しく講道館でなされていない種類の技法であった。当時におけるその異常さと新鮮さは、かつて海軍の柔道家であった海軍大将竹下勇が、植芝の天才に入れ込み、その後半生を植芝の武術の後援に捧げた事実によっても理解されよう。竹下は、日露戦争の際に、山下義韶(後の十段)がかの米国大統領セオドア・ルーズベルトに柔道を教えた際の通訳であった。竹下は植芝の後援会を組織してその会長を務め、富木にこの武術の研究を続けるように激励した人物でもあった。

 植芝との出会い以後、富木は植芝から合気柔術を学びながら、絶えず講道館柔道との関係を考え続けた。襟・袖に組み付けばどのような武術の武術家も柔道の敵ではない。一瞬の崩しで投げることは可能である。しかし、それは当身のない世界でのことである。武術としての一定の限界は明らかであった。

 柔道家として実力者であった富木は、嘉納没後営まれた三年祭(1940年)において、第二代講道館長に就任した南郷次郎と出会った。南郷は、三年祭における富木の合気武道の演武に感銘を受け、相好を崩して、彼を褒めたという。1930年代以降、講道館は軍部等から、柔道は戦技としての実用性を持たないと厳しい批判を受けており、かつて嘉納が課題とした実戦的実用性をもった武道への脱皮は講道館が生き残っていくためにも喫緊の課題であった。

 講道館は1941年夏、講道館の指南役ら最上級指導者を委員とした「離隔態勢の技」の研究委員会を組織し、富木もその委員として、以後毎年夏に研究成果を発表させられた。(富木謙治『柔道体操』p.5)

 1942年、富木は、南郷講道館長の与えた課題に答えて「柔道に於ける離隔態勢の技の体系的研究」(『満洲国立建国大学研究院期報』第12号)を完成し、当身による攻撃にも対応し、加えて近代化の課題(安全性)とも調和する、いわば総合柔道の基本構想と方法を示した。いま、その緒言から思想の骨子を見てみよう。

  • 日本武道の根本原理は、剣道の「剣の気」と柔道の「柔の理」にある。
  • 「柔道の技法は徒手に始まり剣に終わる。古人は「柔術は武芸の母なり」といふた。徒手のうちに剣理を含み体即剣の妙用こそ柔道技法の根幹である。そしてその内容は全く多種多様特に投技・抑技・極技・当技等の変化極まりない技法にいたっては世界無比の発達をなしたものであって日本武道精神の高さと深さとを表現するものといはなければならぬ。」(pp.2-3)
  • 「時代は今や柔道に於いても新しき姿を要求して来た。それは明治以前の姿への復帰ではない。同時にまた明治大正のそれの放棄でもない。それらを渾然融合してしかも来たるべき新時代の要求に適合すべきものでなければならぬ。換言すれば乱取りによって体得し得た融通無碍の妙理と秋霜烈日の勝負の気魄とを新しき姿に盛り込むかにある。更にまた言い換えれば柔道の本体たる乱取りの理法をいかにして新時代の要望する形式にまで展開するかにある。」(p.5)
  • 「そのためには「離隔態勢」を前提とする真剣勝負の技に於いても、「組方」を前提とする乱取りの如き整然たる修行体系を確立しなければならぬ。この修行上の二体系を並立してしかもその間に原理的理法的一貫性を持ちつつ究明展開することによって、柔道は内容的にも形式的にも深化拡大され、現代国民の錬成上一層の成果を挙ぐべきことを信ずるのである。」(p.6)
  • 「柔道に於ける「離隔態勢の技」の体系的修行法の具体案は筆者が二十年の体験を通して確信する如く天真合気武道の技法に学ぶことによってのみ始めて完成せらるべきである。」(pp.6-7)「教育的にまた体育的に国民武道として已に大成された講道館柔道は、更に百尺竿頭一歩を進めて天真合気武道の技法に学ぶところがなければならぬ。・・・ここに一層時代的国民的要望に添い得る日本柔道の飛躍があることを確信するものである。」(p.7)

 富木がここで提案することは、嘉納が考えた柔道と剣道との合体を、柔道と合気武道との合体で行う方がよい、ということにある。その根拠は、彼が学んだ剣術・槍術・柔術を総合する合気武道に対する信頼と、彼の二十年間の体験修行にある。実証されていないこれらの問題の評価は、結局、その理論と方法の修行を通した検証にかかっているといえる。ここでは、一端の考察によってそれに換えてみたい。

 富木は上記の「離隔態勢の技」と「乱取りの技」の二体系を並立してしかもその間に通底する「原理的理法的一貫性」について、上記論文の「根本理法」の章(第二章)で扱っている。その中身は、先、目付、構えと姿勢、進退、間合、作りと掛け、である。それらの内容を検討するために、試みに六つの理法との関係で他の対人武道との比較をすると以下の様に表示することができる。

表:日本武道の根本理法比較
注:○は各武道において自覚化されていると理解されるもの。
  △は比較的意識が置かれないと思われるもの。

 

柔道(乱取り)の理法

柔道・柔術(当身・武器技を入れた理法)

天真合気武道(当身・武器技を入れた理法)

剣道の理法

槍術の理法

目付

構えと姿勢

進退

間合

作りと掛け

 

 「作りと掛け」を除くと剣道、柔道に共通する事項が多い。一方剣道の攻撃の術理を作りと掛けで説明することも可能である。富木は剣術の術理と柔術の術理をからその「根本理法」を導出しており、対人武道の原理的方法として考えられていたことが理解される。それを生み出す契機になったのは「天真合気武道」であったが、彼の理論は一武術を超えた普遍的原理として構成されたのである。

戦後の歩み

  戦後、ソ連によるシベリアでの抑留生活から帰還した富木は、母校・早稲田大学に奉職し、体育教師として再出発する一方、同大学柔道部の師範及び講道館常任幹事となった。また恩師植芝盛平翁を岩間に訪ねて帰還の挨拶をしている。

 柔道部師範としての富木(昭和30年代)は、柔道の技を科学的に明解に説明したといわれる。ある日の集まりに呼ばれた筆者は、彼らの一人が、「私たちの時代、柔道は科学でした」と述べたとき、一同がうなずいて敬意を表した場面を忘れられない。この言の意味と重みは、戦前戦後を通じて「体で覚えろ」という体験主義が跋扈する武道界に少年時代から身を置いてきた彼ら柔道家が、それまで体験してこなかったタイプの指導者と出会った驚きにある、と理解される。

 戦前の富木の思想を飛躍させる契機となったのは、柔道部の学生の稽古後に「離隔態勢の技」を教えることに時間的限界を悟った彼が、合気道部の設立を決意したことであった。設立を議する会議体において、競技・試合のない合気道の客観性を問題視されたのである。結局、富木が合気道の乱取り競技法の確立を約束する形で合気道部の設置が認可された。

 以後富木の研究は「離隔態勢の技」の乱取り法創案に向かい、徒手同士で相互に当身技と関節技で競う、「徒手乱取り法」が完成した。戦前の研究を基礎に、原理的理論、基本の形(17本)、裏技の形(10本)、段階的稽古法(掛かり稽古・引き立て稽古・乱取り稽古)が確立された。

 これらは柔道界と合気道界の両方に転機をもたらす可能性があったが、どちらも両武道界の大勢とならず、富木は、1970年、「合気道競技」としてその研究を進める決断を余儀なくされた。

 大学生による試合も行われるようになり、その晩年には、格闘形式が徒手対ソフト短刀を持ったものが戦う形式のもの(短刀乱取り)に変わった。1968年頃のことである。

 これらの技法体系に現れた富木の武道思想を端的にまとめると、(1)実戦的実用性と(2)安全性、の二点に集約される。また技の有効性を実現するための方法原理が、(3)「移動力」であった。

実用性・制御性・移動力・・・富木謙治の武道思想

  富木は合気道の試合において、当身技においては、柔らかい掌や前腕部で当てる技に変え、関節技においては関節を挫いたりすることなく、また逆技を認めず、関節技で相手を制御しているか否かを、乱取り及び試合における「一本」の判断基準とした。

 例えば、当身技の「正面当て」では、相手の顎や身体に触れて、その後の移動によって相手を「倒れ」に追い込む術理が導入された。嘉納の創案になる「五の形」一本目や、起倒流の形である「古式の形」の「体」や「虚倒」に見られる術理を具体的に展開させたものである。

 また関節技の脇固では、肘を挫く動作を認めず、相手を痛めることなく制御することを教え、逃げようとした際に、逃がすことなく制御し続ける技術を教えた。柔道の「腕ひしぎ十字固め」などで、技が効いているか否かを見極めようとすると、極まっていても我慢する選手が多いため、審判が「一本」といった際には、腕が折られたり痛めたりする場合が多い事に対する、富木の研究成果であった。「小手返し」では相手を投げた段階で「一本」であり、その後の「残心」では「極める」といった動作が排された。「小手捻り」なども同様で、倒した後に手首を捻って、相手を痛がらせるといった「衒い(てらい)」を排した。危険性を排除し安全性を確保するという武道の近代化に際して必要な価値を、その具体的方法で示したのである。

 つまり富木の安全性は、より具体的にいえば「制御性」(痛めない)という言葉で表現される理合いを特徴としていたと理解される。

 実際に効く、相手を完全に制圧するという実用性の要請を、制御性という特徴的性格で封印した富木の理論を現実的に裏付けた技法は、「移動力」と呼ばれた。これは富木が晩年に教えた当初、瞬間に遠くへ移動できるといった脚力と理解され、長く誤解が風靡した。より正確に言えば、身体の動きによって、相手のバランスを崩し続ける技法ということができる。上述の脇固で説明したように、相手が逃げようとした際に、一瞬の移動によって逃がさないという、受と取との間に生じる関係概念といえる。

形と演武競技の違い

  乱取りは自由意思で技を練り合うことで身体を鍛え、技術を研磨し、その体験を通して心を育む教育手段である一方、試合(競技)には、態度の真剣を必要とする場に身を置くことによって、心の動揺を克服する体験をさせ、それによって自律を学ばせるところに得難い教育的価値がある。鍛錬した技の成果を客観化することはさらにその効果を高めるものでもある。このような富木謙治の武道思想は、世界の人々にどの程度理解されているであろうか。

 残念なことに今日の武道の競技・試合では、広く普及しているオリンピック種目からそうでない武道にいたるまで、勝敗の結果のみに価値おく勝利偏重主義の弊害に陥っている。テレビや新聞報道の基調は依然としてメダル数という結果を問うことにあり、選手やコーチ陣、関係者の気持ちを勝利の追求へと誘導している。その結果起こったことは、真に優れた武道家の育成に失敗し、実戦的実用性からかけはなれた奇妙なスポーツ選手を生み出すことになったともいえよう。

 乱取り試合の弊害を救済するのは「形」であるとして、「形」を採点する「演武競技」が各種武道で行われている。しかしこれは成功といえるであろうか。形の標準をなぞるように繰り返した選手は確かにその動作に習熟する。最も優秀な者を金メダリストと評価することは採点競技スポーツとして当然なことである。しかし、それをもって武道の奥義に達したとは言えまい。形には本数の制約があり、攻撃方法や対応方法にも制約がある約束訓練に過ぎないのであるのに対して、形の修行は、本来、これらの制約を取り払って技心を深めていくことにあるからである。

 一方演武競技には選手の心に誇張や衒いが入ることを避けられない。それは選手の演武の勝敗が審査員という他者の目に委ねられている以上、勝つためには、審査員が高く評価する動作へ接近せざるを得ないからである。武道思想の根幹を表現した演武が勝つのは、そのことを理解する者が審査席に座った場合のみに限られ、正しさがその正しさの故に負けるという奇妙な現象が生じるのである。

 富木の乱取りと形に関する武道思想と演武競技を理論的に調和させるのは難しい。しかし敢えてこれを行うとすれば、先に述べた三つの根本思想をいかにルールに織り込むかにかかっているといえる。

武道修行の目的及び手段

  嘉納は武道修行の目的を「己の完成」に置いた。富木はその思想をより具体的に展開して「無心」(平常心)と「無構え」(自然体)と表現した。富木が試合の意義を認めたのは、試合こそが心の動揺に直面する場であり、「平常心」の重要性を知る場であるからであった。「無心・無構」という武道教育の理念は、後世に対する贈り物である。

 しかし、いかなる理念も、そこに至る技の過程の修練を忘れさせ、ややもすると精神主義に陥りやすい側面をもつ。ここから逃れるための具体的な教えを、富木はその最晩年に執筆した「武心を養う」に明示的に記している。

 武道修行の目的は、「わざ」の練習によって、健康を獲得し、行動力を強め、社会人として善き品性を育てることにある。このことは、「わざ」を磨くことが「こころ」を磨くことであって、現代の競技がすべてこれに該当する。

 対人格闘の武道は、その実力を客観化して自分を反省するためには、最後には、「試合」を必要とする。この「試合」を「実戦の場」から「競技の場」にうつして行うのが現代武道である。したがって、武道を一般格闘競技の範疇に入れることに矛盾がない。

 だが、武道は歴史的術理的に深く考察するとき、暴力の存在を前提として、これに対応する心と身の備えを究明した。そして、完全防御を目的としていたので慎重な一挙一動、さらに基本構造や格闘において著しい特性をもっている。これを理解し練習の上に生かすことがこれからの武道の進め方に大事なことである。

 「完全防御を目的とする」ということは、実戦的実用性の追求を目的とすることに外ならない。また「基本構造」とは、「崩す」に集約される心技体の運用方法を骨格としたものをいう。富木は、これらを稽古によって理解し、乱取りと形の練習の上に生かすことの大切さを語っているのである。

 残された我々の課題はこの遺訓を堅持することにある。それを生かした稽古法の理解を深めて修行に取り組むと同時に、試合など競技の審判規程にこの遺訓をしっかりと反映させていくことが求められているのである。

(志々田文明/2015年11月18日稿)