嘉納治五郎の目指した柔道
柔道創始者の嘉納治五郎は、柔道以外のボクシング、空手、合気柔術、棒術、レスリングなどいくつかの武術に大きな関心を持っていた。嘉納は、柔道を最高の状態に改善するために、それらを熱心に研究した。
嘉納は以下のように記している。「要するに従来の剣道の形として教えていたものを、ある形で柔道の練習として加えたいのである。かくして従来の柔道と剣道とは、合体して一のものになるはずと思う。」嘉納が1918年に考案した新しい練習方法は、柔道と剣道の結合させたもので、彼の武術研究の成果であった。嘉納の見解はそこで終わらず、将来の柔道が今日の普通の柔道家のパラダイムを越えるものであることをほのめかしていた。
1938年の嘉納の死後、富木は、離隔態勢で柔道を行なった嘉納の二つの練習方法論を発展させた。本研究において、私(注:志々田)は嘉納の5種類の武術との関わりについて調査したい。その過程の詳細を理解することで、我々は嘉納が熱心に追い求めた理想の柔道がどのようなものであったのかということ、嘉納が当時の柔道にどれほど不満を持っていたかを学ぶことができるだろう。
1918年に嘉納は、柔道家が将来ボクシングの研究に力を入れることになるだろうと述べている。その証拠に、9年後の1927年、嘉納はボクサーに対してどのように接近するかを教授し、ボクサーとどのように戦うか、具体例を示した。嘉納は、ボクシングには見られない蹴りの技術を含んでいる空手にも非常に関心を持っていた。嘉納は、勝負の際に空手家の身体の一部を掴むことによって彼らにどのように対処するか、どのように空手家の重心を崩すかを熟慮した。
1924年、嘉納は精力善用国民体育と呼ばれる新しい体操の形を創作した。その形は単独動作と相対動作の二部で成り立っている。この形を学ぶとき、嘉納が全般的な健康だけでなく、当身についての柔道家の自覚を改善しようと試みたことは明らかである。
1930年、嘉納は永岡秀一と三船久蔵という二人の高弟を伴い、当時は大東流合気柔術と呼ばれた植芝盛平の武術を見学するために植芝を訪ねた。嘉納はその演武に感心し、「これこそ本当の柔道だ」と述べた。なぜなら、嘉納のより大きな柔道概念の中では、全ての優れた武術は柔道に包含されるべきだからである。
嘉納は剣術と棒術がいろいろな状況の中で用いられることが可能な、最高の武器を身に付けた武術とみなしていたため、棒術に不可欠な武術という高い価値を置いていた。嘉納は以下のように述べている。「私は講道館柔道の一部門として棒術を普及させたい。」一方で、嘉納は、講道館が武術の研究所を設け、伝統的な日本の武術を基礎とし、諸外国の武術を考慮して、それらの武術を練習することを公表した。
嘉納の熱心な研究と努力は柔道をどのように変化させ、何が変わったのだろうか。率直に言うと、ほとんど何も変わらなかった。講道館第二代館長の南郷次郎は、離隔態勢における柔道の技の研究委員会を設立した。委員会の最古参の指導者であった富木謙治は、それまでの研究の蓄積を元に、1942年に「柔道に於ける離隔態勢の技の体系的研究-柔道原理と合気武道の技法」と題された論文を完成させた。その論文は、嘉納師範により提示された問いに対する答申とみなされる。
(出典:Shishida, F. (2010) Judo’s techniques performed from a distance: The origin of Jigoro Kano’s concept and its actualization by Kenji Tomiki, Archives of Budo, Vol.6(4): 165-172.)
(翻訳:工藤龍太/2015年11月29日稿)